安曇野市議会 2022-12-12 12月12日-03号
現在は、研修施設として利用されている鐘の鳴る丘集会所ですが、歴史をひもとくと、大正時代には温泉旅館として、また、昭和21年からは建物は鐘の鳴る丘有明高原寮として利用されるようになりました。翌昭和27年から放送されたラジオ番組「鐘の鳴る丘」の舞台となった建物ということでは、ある程度の年齢層の方にはかなり有名な話です。
現在は、研修施設として利用されている鐘の鳴る丘集会所ですが、歴史をひもとくと、大正時代には温泉旅館として、また、昭和21年からは建物は鐘の鳴る丘有明高原寮として利用されるようになりました。翌昭和27年から放送されたラジオ番組「鐘の鳴る丘」の舞台となった建物ということでは、ある程度の年齢層の方にはかなり有名な話です。
国葬については、1926年(大正15年)に、国葬令が公布され、明文化されましたが、第二次世界大戦後の憲法制定とともに失効し、現在は法的根拠がありません。また、国葬は憲法に保障された内心の自由を侵害し、国民一人一人に弔意を強制することにつながるおそれもあります。国葬が政治的利用につながるとの懸念の声もあります。
ところが、1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、これによって柳が焼失してしまいます。その後、「昔恋しい銀座の柳」から始まる「東京行進曲」のヒットもあり、1932年(昭和7年)、震災復興記念として安曇野産の柳を出荷し、再びその姿を取り戻します。 しかし、1945年(昭和20年)の太平洋戦争の東京大空襲によって、銀座一帯も焼け野原になってしまいます。
それでは、最後に市長、小諸市動物園は大正15年に開園し、県内最古、全国でも5番目に古いという動物園で、先代から守られ続け、こうして市民に愛される動物園であります。過去には動物園を閉鎖したらどうかとか、数年前にはそんな声も聞きました。
臼井先生の幼少期、つまり大正時代の安曇野は、6月に咲いたレンゲをすき込んだ後、代かきをし田植を行っていました。現代農法とは幾分違うこともありますが、安曇野と聞けば、誰もがこの美しい田園風景を思い描くのではないでしょうか。いつの時代であっても変わらないものは変わらない、臼井先生が愛した美しい安曇野の原風景を私も残したい。
3月の代表質問で小川市長は「明治、大正期は商都として隆盛を極めた歴史は、町並みも極めて後世に引き継ぐ大切な地域であると認識しております」と答弁されています。 市長に改めてお聞きをします。重伝建地区を今後どのようにしていこうとされているのか、どのような位置づけとしているのか、具体的な考えをお聞きをいたします。 ○議長(和田英幸君) 答弁を求めます。 小川市長。
なぜならば、我々の前に眼前と立ちはだかる大正生まれ、昭和初期生まれと対峙するための手段として非常に有効でありました。横文字に弱い世代を煙に巻く手法としては、当時、全国的に流行していたと記憶しております。横文字を使うことは教養人のあかしとばかりに思い上がった風潮が蔓延しておりました。
大町市の山との関わりは歴史が古く、大正6年に我が国で初めて設立されました山案内人の組織、大町登山案内人組合は、100年以上にわたり連綿と活動を継続し、山岳ガイドや登山道の整備などに大変御尽力をいただいてきております。
そんな中で緊急車両の通行にも支障が出ているわけでありますが、坂城や上田市に向かう通勤車は万葉橋、または大正橋から上山田地区に入り込んで、上山田の温泉の中央通り、そして、片一方は、城山通りを越えて、上山田庁舎前の信号で合流するんです。ですから、あそこの信号から温泉街まででずっと数珠つなぎになってしまう。
そういった背景の中で旧矢崎商店、大正から昭和にかけて生糸問屋を営んだという建物でございます。正面は看板建築というふうに呼ばれる、諏訪でも割と知られている建築でございまして、町にある数少ない文化的価値もある貴重な建物の一つというふうに捉えております。
◎町長 具体的な内容につきましては、今後検討課題をクリアしながら決定していきたいというふうに考えておりますけれども、私の構想というか思いとしましては、移住定住を促進・推進して活力あるまちづくりという私の公約、この実現に向けまして、生糸問屋を大正から昭和に営んだこの旧矢崎商店を活用させていただいて、地方創生の起業創業、移住定住というところの推進を図らせてもらうということでの拠点となるオフィスという形で
その後、善光寺地震による災害を乗り越えて、明治・大正期は商都として隆盛を極めた歴史は、その街並みも含めて、後世に引き継ぐ大切な地域であると認識をしております。 加えて、日本遺産「月の都 千曲」の構成文化財のひとつでもあり、千曲市の誇るべき重要な歴史資産であると考えております。 続きまして、新規造成事業の問題点についてであります。
明治・大正期に国策として鉄路が全国に敷設され、急速に日本の近代化が進みましたが、市内にもそれによって分断された地域、北小野、洗馬、奈良井、木曽平沢があり、同様の問題を抱えています。国有から私企業に移行したとはいえ、その発端はJR側にある。
また、当該物件に関しましてですけれども、大正から昭和にかけて生糸問屋を営んだお宅の建物ということで、正面は看板建築と呼ばれる、諏訪ではそんなに多くない、数少ない建物、建築でございます。そういうような意味からも、町にある数少ない文化的な価値を持った建築物というふうに考えております。
次に、2点目の水道事業に対する質問でありますが、本市の水道は大正13年に供用を開始し、今年で98年を迎えております。その後、昭和30年代の高度経済成長期に地域ごとに整備された管路施設は、法定耐用年数である40年を3割以上が超え、老朽化が進み、更新の時期を迎えている状況にあります。 このような中、将来も持続可能な水道事業の考え方は3点あるかと考えております。
大正・昭和には、花柳界は製糸王国の岡谷が多くの方を下諏訪に連れてきまして、当時百数十人の芸者がいたそうです。ちなみに大増旅館にも芸者さんの写真ですとか古いトウ製のソファーベッドのような家具があります。昭和初期の諏訪大社を中心に、御柱祭では人々の大にぎわいの写真もありました。戦後は目覚ましく発展し、下諏訪は今や精密工業に加えて観光の町、移住定住の町へと変わっています。
小項目1、大正橋から戸上中学の間の堤防は安全か。 堤防工事の連絡を建設課より頂き、復旧後の現場を確認いたしました。その際、土手周辺の様子に、大きな不安を感じざるを得ませんでした。 具体的には、1、台風19号で流れが変わり、本流が土手直下に向かって流れていること。 2、堤防のり面の傾斜が急であり、のり面直下に雑木が大小何本か生えていること。
旧矢崎商店につきましては、大正から昭和にかけて生糸問屋を営んだお宅、建物でございまして、正面は看板建築と呼ばれる建築史上大変重要なもので、諏訪地域でも数少ない建築というふうに言われておるところで、この内部につきましては、技と粋を凝らした造りとなっているものでございます。
否定するわけでもなくて動機ですが、実は大正時代から昭和の初期、教育者であり、また民俗学者の柳田國男氏とも親交があり、地理学者であった牧口常三郎氏が単級学校、全校生徒を1学級に編成した教育形態の小学校に赴任し、昔の話ですけどね、学年ごとに予備知識が違うため、それはそうですよね、学習管理が困難な現実を子供の側に立つ視点で2つの新たな教育実践をこの当時行いました。
ご承知のとおり、江戸時代から、大正から、明治からという建物がずっとそろっていて、あの建物を直すだけでも、今の技術じゃ直せないというところまでの、壁もこんなに厚いしっくいが入っていたとかということで、材料費だけでも大変になってくるということで、2世の皆さんがどうやってこれを積んでいこうかということで、この間も実は伝建ということについてお願いをしているという、本町の皆さんも今、必死に動いているということは